昭和四十七年三月十六日


御理解第二十八節 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」


 元気な心で信心せよと、一つの願いを立てます、その願いが成就する、このことを頂かんならんと。それまでは一生懸命修行もする、御祈念も一生懸命する、お参りもすると。それがやはり元気な心ですよね。そのことを思うたら、言うならじっとして寝ては居られないと、それで元気な心が湧いて来る。ところがおかげを頂く、一生懸命の信心をしておかげを受けた。それを受けたらやれやれと言う心が出る。そうするともうそこに元気な心と言うのはなくなる。 本当にあげな難儀な中におかげを受けた時には、それこそいさぎよい信心が出来たけれども、最近はもうあげな信心は出来んというようなことになって来る。だからここで元気な心で信心せよというのは、そういうおかげが目当てと言うことから出て来る元気な心ではなさそうである。それがその一つが成就することのために、良いのですけれども、そういうおかげではね、いわゆるおかげがおかげにならんのです。
 ある盲目の人が、器量はよくないけれども心掛けがよいからというので、人の世話するところで奥さんをまらった。器量はよくないけれども非常に気立てがよい。もうそれは近所、隣の人達が羨む程に仲が良い。ところがある日、徳の高い坊さんがその村にやって来まして、そしてそのお徳の高い坊さんのまあ霊力というかお徳によってその盲目の人が開眼のおかげを頂いた。目が開いた。さあその喜びようというたら、本当に天にも昇る程しの喜びであった。それはそうでしょうね、長年盲目であったのが神仏のおかげで目が開いたのですから。ところがです、人が羨む程の仲の良かった夫婦仲が、非常に仲が悪くなって、毎日毎喧嘩が絶えないといったようなことになったとという話がある。
 目が見えない心掛けが良い嫁さん、本当に自分の家内は優しい本当によく世話してくれるよい嫁だと嫁さんを大事にする。嫁さんもまた主人を大事にする。本当に人も羨むような仲であった。ところがたまたま偉い坊さんがみえたばっかりに、目が開いた、開眼のおかげを頂いた。そしたらもうとたんに、夫婦の仲が悪うなった。私は人間がね、只目前目
前のおかげを受けるということはね、もう大なり小なりそうゆう結果しか生まれて来ないと思うですね。ここにもそういう例は幾つもあります。本当にあの時頂かなけりゃよかったと。
 ある母親が子供の病気のために一生懸命参ってきた。まだ二十才そこそこの青年がやせ細って、それこそ突けば折れるような状態で、母親と参ってきよった。段々おかげを頂いて元気になった。ところが信心をスパッと止めてしもうたと思いよったら、暫くしてからその母親がお参りして来てから、「大変なことが出来ました」と。ここでおかげを頂いたあれが、近所の不良青年と付き合うようになって、しかも村内の牛を泥棒した。牛泥棒をした。「もう本当に先生、あの時死んどった方がどげんよかったかわかりません」と言うて、ここで泣かれた方がある。
 「そんなら、初めあんたあげんやあやあ言うちから何せん方が良かったじゃないの」と。「さあそれからの信心、それからの信心によっていっちょおかげ頂きなさい」と。もう人の前に顔は出されん、しかも遠かところのであるならばですが、村内のお百姓さんの家の牛を盗んだ。その何人か不良少年ばかりが集まってね、そういうことをしてそれが発覚した。警察の取り調べを受けることになり、いろいろまあ若いからというて、いろいろあれして、たいした罪にもならんで済んでおかげを頂いて、その後また母親の信心によって、それから又嫁さんをもらって、北九州の方へ出て行って、今はまた真面目になっておるという話。
 まあその後の信心によって、おかげを頂いたものの、頂いたおかげが却って災いの元になったり、本当にもうあの時死んでくれとった方がましであったというようなことではいけないでしょうが。その時そういうおかげを頂くためには、一生懸命本当に助かるような、夜も夜中もないというような信心を受けたのです。それでやはり元気になった。
 ですから、私は元気な心で信心せよと言うことは、一つのおかげを頂かんならんから、眠かつもこらえ、寒かっもこらえて一生懸命参るというような心が、私はここでいう元気な心ではないと思う。それなら元気な心とはどういう心だろうか、元気な心というのは、御比礼とおっしゃる。御比礼、あちらの教会はなかなか御比礼が立つと言うでしょう、比礼、比礼という字が書いてある。魚が泳いで行きます時に、ヒレをぱっぱっと動かし乍ら泳いで行くでしょう、、あの一つの勢いというかね、ぱっぱっとひれを動かしながら泳いで行くあれを比礼と言うのである。いわゆる生きんとしておる、しかも泳ぎぬいておった。そこで比礼に浴するとまあいろいろあると思うですけれども。
 昨日、一昨日でしたか、福岡の高橋さん税務署の申告のことでお届けをさしてもろうて、一昨日行かれた。ところが税務署に行った時、入口で古屋さんとぽっかり会われた。それで古屋さんにもいろいろと、そのことについていろいろと教えて上げられただけでなくて、ああ今日は神様の御許し頂いて来ているなと心の中で実感が比礼に浴したから、心が生きんとして来た。誰でも税務署に行く時にはそげん生きんとして行きませんよね。
 それから又入って行きよったら、こんどは富永さんとぽっくり会った。いよいよ今日は
御取次を頂いて、それこそ合楽の御比礼に浴しながら、今日はここに来らせて頂いとるのだと思うから、心がはずんでくる。言うなら押しもきく、神様の御守護の中にそういう実感をさしてもらう時に、心の中に、ああ神様の御守護の中にあるんだなという実感がね、比礼に浴するわけです。そういう時には思わず元気な心が生まれて来る。ですから出来ないものでも出来る、押しまくって行くような元気な心が出来る。弱気がない、強気で行くことが出来る。
 教会がどんなに御比礼の立つ教会に御縁を得ても、その御比礼にお互いが浴しなければ、今日私が言う元気な心は生まれて来ない。信心の稽古を段々さして頂いておるおかげで、いろいろと事に処する時、例えば難儀なら難儀に直面した時、却ってファイトのようなものが湧いて来る。本気で改まることにも、研かして頂くことにも信心修行にも、却って熱が出て来る、そういう心が私は元気な心だと思うですね。だから元気というのは、さあいっちょ元気まき出してからというようなものじゃないです。もう元気と言うのは、そこでわざわざいっちょ元気出さにゃと言うものでなくて、自ずと出て来るものなのです。元気な心というものは、何かに直面した時、それから今まで出来なかったような信心が出来て来るようなそういう心も、私は元気な心だと思う。
 いよいよ本当な意味においての元気な心というのは、いわゆるおかげを頂いた暁、いよいよ止むに止まれん心が、信心修行に打込んで行くというような心が、これは本当の元気な心だと思う。いかに夫婦仲が良いというておっても、自分が盲目の時にはそれこそ気立てのやさしい嫁と思うて、仲が良かった。おかげを頂いて目が開いた。開眼のおかげを頂いたら途端に、夫婦仲が悪うなった。だがそういう仲は本当のものじゃない、熊本民謡のおてもやんじゃないですけどね、顔や器量には惚れんばな、腰に差した煙草入れの金金具が因縁たいと言ったようなことを申します。歌の文句です。おかげを受けたから受けないからといって信心しよるとじゃないよと言うわけです。いわゆる金金具、目の付けどころが違う。
 この信心はこれは、人間が本当に幸せになって行くためには、いよいよ一生掛かりでさせて頂かねばならんという見極めがまず付かなければいけんと思う。信心は只おかげを頂くから有難いという神様ではつまらん。まずその着眼が、例えば金光様の御信心を、御利益あらたかだからと言うて信心するのじゃ、必ず元気な心がなくなったり、頂いたおかげのためにおかげを落としたりするような結果しか生まれて来ん。
 この方の信心は、病気治しや災難除けの神ではない、心直しの神じゃと仰るように、しかもその心直しということは、結局わが心の中にやわらぎ喜ぶ心が、いよいよ本格的な本当なものになって行くところに、その和賀心に集中して来るところの、御比礼、おかげ、和賀心の前には、もう何にもない。どういう悪霊・悪魔というものでも和賀心には寄り付けない。どんなに運命が落ちておる人でも、わが心の事によって、運命は新たな運命を生みなして行く。どんなに日柄やら方位やらと言う様なことがよしあったにしても、もうこの和賀心の前にはもういつも平日、よい日ばっかりなのだと、和賀心の前には、そういう
功徳と言うものが和賀心にある。
 その和賀心を目指して、成程教祖金光大神が、「生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」と仰せ出されたそのことがわかる。これは大した信心だぞとわからせてもらう。そこに目当てがある。そこに目をつけて、もう和賀心さえ頂けば、いや和賀心になることにさえ精進して行けば、もう一切がおかげであるということになって来る。
 だからまずそういうお道の信心の一番素晴らしいところに、着眼として、そして、元気な心で信心して行かなければならん。「井戸は清水になるまで、病気、災難は根の切れるまで」井戸は清水になるまでを目指さなければならん。いや私どもの心がいよいよ研かれ、改まり、いよいよ和賀心に向かって進んで行くと言うことが、楽しいという信心、そのためには昨日の御理解じゃないけれども、一つ信心が好きにならせて下さいという願いから、祈りから、入って行かなければならん。ここのところをややもすると元気な心ですね。「一心に壮健で繁盛するよう、元気な心で信心せよ」と言われるから、只元気まき出そうと元気出して参ろうという元気と間違える。
 それは丁度初心の頃、何かそこにおかげを頂かんならんから、朝早起きもする、修行もする、そしてそれをもらわんならんばっかりに、一生懸命に元気出して参って来る。そういう心も元気な心だけれども、それはここでいう元気な心につながらない。病気災難は根が切れるというおかげにはつながらない。只そのことが、一つか二つか成就するということに、だから信心をそういうことだけで一生懸命になれば、どういうおかげでも頂けると思うておるといったような信心は、非常に浅い、そしてそれとならばどのような心が元気な心かというと、何かに直面する時に、湧いて来るところのファイト。今まで出来なかったような修行が、そのことによって、却って出来るという人と、何かに直面したら、それで挫折してしまうという人がある。今は元気な心がない証拠、けどもそのことよって、奮い立つような信心、それが、私はまず元気な心だと思う。
 だからそれだけではない、そこで私どもが、そして元気な心を頂かしてもらうために、高橋さんの例じゃないけれども、教会の比礼を受けて行かねばいけん。生活の上にその比礼を感じなければならない、そこから生き生きとした心が湧いて来る。本当の元気な心というのは、私どもがあれと願い、これも成就したというようなおかげを頂いたら、頂けば頂く程、湧いて来る元気な心が、本当な意味においてのの元気な心だということ。おかげを頂けば頂く程、信心が進み、生き生きとした信心が出来て来る。願いの信心から御礼の信心に奮い立って来る。
 いよいよ自分の心は、和賀心を目指してのおかげになっている。そういう信心を元気な心、何十年信心しとってもね。いつまで経っても、もう何十年とあげん信心しござるけん、大抵病気災難は、根が切れなければいけんと思う。井戸は清水になっとらにゃならんと思うけれども、長々の信心は駄目です。けれども今は不思議ですね、やはり何十年と信心をぼちぼちでも続けとりゃ、確かに何とはなしにおかげを受けるですね。これは間違いな
いです。
 もう何とはなしに、けどもそういうおかげではなくて、本気で成程、病気災難は根が切れたであろう。井戸は清水にならせて頂いたのであろう。本当に自分達の家族を上げての信心がです、和賀心を目指してのおかげを頂けば頂く程、元気な心が湧いて来るというような信心にならせて頂く、そういう心を以て、今日は、私は元気な心と、そういう元気な心を、そういう元気な心を求めての、信心でなからなければならない。只これを読ませて頂くだけだと、辛抱さえしとけば良かと、只、辛抱だけじゃいかんのです。これは絶対信心辛抱でなからにゃいかん。本当なおかげは、只親の代から何十年信心が続いとるというだけではいかん。
 その信心が本当に、段々段々、それこそ、信心しとれば一年一年有難うなって来ると仰せられるように、一年一年有難うなって行くような信心でなからなければ、これはいわゆる本当のおかげにはならん。病気災難は根が切れるとか、壮健で繁盛するようなとか、井戸は清水になるようなおかげにはなって来ない。どうぞ元気な心で信心させて頂きますように、その元気な心を体得させて下さい。間違えてならないことは、只困った時に、これはどうでもこうでもおかげと頂かにゃならんと思うての願う心は、信心でいう元気な心ではないということ。
 成程、元気な心でないわけではない、それはがむしゃらに、神様に縋って行くということによって、奇跡を生むようなおかげは受けられる。けどそういうおかげは得てして、先から申しますように、頂いたばっかりに、頂いたおかげで、本当にあの時息子が死んどけば、却ってよかったと後々思われるようなことになったり、頂いたおかげが、却って難儀の元になったりするようなことになる。そういう、心では元気な心でないことを一つわかってもらわねばならん。
 元気な心というのは、もう生き生きといつも、前向きの姿勢といったことを言われるけれども、何日の場合でも、心が神様へ、しかも魚の泳いで行くヒレを立て、泳いで行くような、ああいう勢いと言うかね、パッパッとこうヒレを動かしながら、泳いで行く魚のヒレのようなびちびちしたようなものが、心の中に、頂けとらにゃならん。そういう心が頂かれることが信心なのだ。それには眼目と言うところを間違えたらそういうことになって来ない、只このことを頂かんならんということの眼目であったら、元気な心は一生頂けません。
 只おかげを頂くこつといったようなものは体得したにしましても、それこそ顔や器量じゃないということと言うことでなからねばいかん。金金具が目当てであると言うこと、おかげは和賀心にあると仰せられる。その和賀心をいかににして、和賀心に頂くかと、その和賀心に、焦点をおいてのというようなことになって参りましたら、決して信心が緩むようなこともないでしょうし、又頂いたおかげによって、却ってけがするというようなこともないでしょう。ますます有難うなって行くばかり、一年一年信心をすれば有難うなって行くのですから、成程一年勝りのおかげもついて来ることは勿論のことであります。今日
はこの元気な心ということについて聞いて頂きましたね。 どうぞ